2011年11月14日月曜日

書評『百年の孤独を歩く』

スペイン語文学者で翻訳家の田村さと子(1947年生まれ)が、1985年に知己になって以来、親交を保ってきたコロンビア人ノーベル文学賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(GGM)の代表作『シエン・アニョス・デ・ソレダー(邦題「百年の孤独」、本来は「孤独の百年」)』の物語の舞台を訪れる文学探訪記。2011年4月、河出書房新社から出た。2400円。

      GGM好きには堪えられない<旅日記>であり、とりわけGGM夫妻、親族らから友人として扱われてきた著者をうらやましがる向きもあるだろう。

      カリブ海に突き出したグアヒーラ半島にワユー民族を訪ねるくだりは、とくに興味深い。ワユー社会ではいざこざが起きると、仲介者が双方の話を聞き、過去の対立の歴史などを話して聞かせ、いざこざを解決する。その仲介者を「多弁家」と紹介しているが、ここは「語り部(アブラドール)」とするのがいいだろう。マリオ・バルガス=ジョサ(MVLL)の『密林の語り部(エル・アブラドール)』と同じような立場の賢者なのだ。

     著者は後書きで、GGM夫妻に親しくしてもらっているがゆえに、GGMや夫人の私生活面にはできるだけ触れないことにしている、と書いている。当然の配慮だろう。本書にGGMの挨拶文や推薦文の類がないのが好ましい。

     だが著者は、「私は自分を唯美主義者だと思っている。それは、表現が美的になるよう心を砕くことを意味する。文体を模索してさんざん苦しむ」など、GGMに貴重な発言をさせている。

     著者は、コロンビア行脚の行く先々で、左翼ゲリラ、極右準軍部隊(パラミリタレス)、麻薬組織、軍・警察部隊が入り乱れて戦う状況に遭遇し、そのことを記している。ならば、GGMに、そのような状況について一言語らせればよかった。この点は惜しまれる。

     GGMが南米人であるよりもカリブ人であるという、日本人には気づきにくいイデンティダー(認同、アイデンティティー)を、作品や風土から指摘し、強調しているが、完全に的を射ている。

     難点を指摘すれば、『百年の孤独』に登場するアウレリアーノ・ブエンディーアの名前が「アウレリャノ」となっていることだ。そのように耳に聞こえて訳した者がいるとして、それに倣ったのかもしれないが、正確さが必要だ。

     GGMを「マルケス」している箇所が多いが、「ガルシア=マルケス」とするのが正しい。バルガス=ジョサの場合も「ジョサ(ないしリョサ)」とすれば不完全だ。もし「マルケス」を使うならば、「父方姓ガルシアまで書くと長すぎるから、便宜上、母方姓マルケスだけを書く」などの注意書きを添えるのが、読者にとっては親切だろう。

     そうしないと日本人読者いつまでも中途半端な理解しかできなくなる。

     また、本書の冒頭でGGMの愛称を「ガボ」と書きながら、「ガブリエル」という肝心の名前は、かなり後の方になるまで書いていない。「ガボ」が「ガブリエル」の愛称であるのが、スペイン語の知識のない読者にはわかりにくいはずだ。

     しかし、GGM好き、ラ米好きならば、こんな短評は脇に置いて、本書を読むのが先決だろう。

(2011年11月14日 伊高浩昭)