2012年3月11日日曜日

連帯の文化-大震災1周年に思う

☆▼☆東日本大震災から3月11日で丸1年が過ぎた。私は1年前のこの日、日本に居なかった。旅の途上、アフリカ大陸の北東端に居た。早朝、ホテルの部屋のテレビで、大津波が東北の大地を急襲する映像を観て、驚愕したものだ。

★4月半ば帰国し、日に何度もあったかなり強い地震を連日体感して、大震災の延長線上に生きていることを実感した。

☆「大震災発生時、きみはどこに居た?」、「どう行動した?」-そんなやり取りが続いていた。私は、「実は日本に居なかったんです」と、ある種の後ろめたさを覚えながら小声で答えるしかなかった。

★震災後、日本人の間には、「放射能からの逃亡」という生存本能に基づく自衛主義、責任を明確にしない政府・東電など支配層の利己主義、そして被災地外から救援・支援活動に乗り出した連帯主義が現れた。自衛本能も利己主義に含まれる。

☆最も印象深いのは連帯主義だった。「3・11」を経験して、日本人の間に「連帯の文化」が定着したと思う。他者の痛みを己の痛みと受け止めて、痛んでいる他者に対応する精神である。それは国境を超える。人間としての普遍的な精神だからだ。

★この10か月余りの間に東京で、外国メディアから大震災について「日本人はどう変わったか」というテーマで、何度か取材を受けた。彼らの共通した質問は「連帯」についてだった。

☆彼ら外国人ジャーナリストは、被災地に向けられた連帯を、当然のことであると同時に、<見えない敵=放射能>の下での連帯であることから一層「尊いもの」として捉えていた。そして、本音や感情を率直に表現するのが上手ではない日本人が、大震災後、連帯を言動ではっきりと表していたのを感知していた。そのことを、日本人の私の口から語らせたかったのだ。私は、そのように理解し、答えた。

★1年前のこの日、日本に居なかったことを、仕方なかったこととはいえ、私は悔恨の気持をもって記憶しつづけるだろう。しかし「連帯の文化」が定着したことを、同胞として誇りに思いつづける。

☆きょうテレビ特集番組で、20年前の雲仙普賢岳火砕流災害の被災地の小学生たちが自作の歌を、大震災の被災地に向けて歌うのを観た。「20年前のことでした」の言葉で始まる歌は感動的だった。20年前には生まれていなかった小学生が、地元の災害を追体験し自分のものとして受け止め、歌にして贈ったのだ。

★このような子供たちや若い世代の優れた連帯精神は、日本の新しい資産だ。頼もしい。油断するとすぐに心が老いぼれる私は、新鮮な活力を注入された。