2013年3月31日日曜日

国連人権理事会がパラグアイに勧告


 ジュネーブの国連人権理事会は3月28日、パラグアイ政府に対し、昨年6月15日に同国クルグアティで起きた農民11人虐殺事件の真相解明と、この事件を受けて、改革派のフェルナンド・ルーゴ大統領が解任された弾劾事件の経緯の調査を勧告した。

 農民虐殺事件の背後には、農民たちに所有地の一部を占拠された大地主がいると見られている。同事件では出動した警官隊のなかの6人も死亡したが、政府は警官6人の死因だけを調査してきた。この事件の直後、保守・右翼勢力が多数派の国会は、ルーゴ大統領を大急ぎで弾劾・解任し、保守派の副大統領フェデリコ・フランコを大統領に昇格させた。

 解任劇は手続き上も問題があり、政権奪回を狙うコロラード党をはじめとする保守・右翼勢力の陰謀と見なされている。ルーゴ解任に怒ったブラジル、アルゼンチン、ウルグアイは、パラグアイの南部共同市場(メルコスール)加盟資格を凍結した。パラグアイ大統領選挙は4月21日実施の予定で、この選挙により政情が正常化すれば、加盟資格凍結は解除される。

 人権理事会はまたフランコ政権に対し、農民・先住民・人権活動家への迫害・拷問・殺傷を止めるよう勧告した。理事会は、大地主らがつくる用心棒組織「市民安全住民委員会」による拉致・拷問・殺傷事件を指摘し、政府に同「委員会」の取り締まりを求めた。

 最近、ストロエスネル独裁時代に殺害された政治運動家らの遺体が発見され、そのなかに政治指導者アグスティン・ゴイブルと見られる遺体もあった。理事会は政府に、発見されたすべての遺体の身元の調査を開始するよう勧告した。

 理事会はルーゴ前大統領らを証人に招き事情聴取して報告書を作成し、パラグアイ政府に勧告するに至った。

2013年3月28日木曜日

BRICSが開発銀行設置を決める


 BRICS(ブリックス=ブラジル、ロシア、インド、中国、南ア)は3月26、27両日、南アのダーバンで第5回首脳会議を開き、開発銀行の設置を決めた。「欧米の影響力が強すぎる」国際通貨基金(IMF)や世界銀行(世銀)の役割を補完ないし代替する機能を持つ。本部の場所や、5カ国別の出資額は未定。

 この開発銀行は5カ国および発展途上諸国を融資対象とする。特にアフリカの開発と工業化が重視されるもよう。

 5カ国は昨年の首脳会議で、総額1000億ドルの外貨準備基金の開設方針を決めたが、今会議で結論は出なかった。

 国際政治面で5カ国は、イラン問題の交渉によらない打開策に反対し、イランへの軍事介入および一方的制裁の可能性への懸念を表明した。シリア情勢については、治安と人権状況の後退に警鐘を鳴らすとともに、さらなる軍事化に反対し、当事者間の対話を要請した。

 ブリックス5カ国は2012年、世界のGDP総額の21%、人口の42%、労働力の45%を占めた。域内貿易は2820億ドルに及んだ。今会議中、ブラジルと中国は300億ドルの範囲で向こう3年間、自国通貨で輸出入する協定を結んだ。

 次回の第6回首脳会議は、来年ブラジルで開かれる。

2013年3月26日火曜日

2013「波路はるかに」 第8回(最終回)=横浜=


 ピースボート「オーシャン・ドゥリーム号」は3月25日昼過ぎ、100余日間の世界周遊航海を終えて、横浜港大桟橋に帰着した。私は半分ちょっとの55日間の船旅だったが、東京から乗船地ブエノスアイレスまでの空路の旅を入れると57日間になる。水案(水先案内人=船上講師)としての今回の旅も、寄港した各地で取材ができ、船内での多くの人々との交流も含め、実り多い旅路だった。

 予想していたとはいえ、ウーゴ・チャベス大統領の3月5日の死は衝撃だった。船内で「チャベス後のラ米情勢」という緊急講座を開いたが、船客の半数に当たる450人が熱心に聴いてくれた。

さて長旅の報いで、過去2ヶ月間の情報の空白を埋めなければならない。これなしには先に進めない。ラ米情勢についてのまとめ記事も、少しずつこのブログに復活させたい。

パペーテ・横浜間の最後の16日間の航海では、パペーテから乗船の水案で軍事ジャーナリスト前田哲男さんの太平洋戦争、安保条約、憲法9条の今日的有効性、自衛隊、原爆と原発などをめぐる連続講座が圧巻だった。3月20日の「イラク戦争」開戦10周年の日には、私は前田さんと特別講座を開き、米戦略や報道の観点から、会場を交えて論じ合った。

私は会場からの「なぜ日本のマスメディアは、権力批判という根源的役割を捨てて体制の宣伝機関になり下がってしまったのか」という質問を受け、「戦前の天皇制軍国主義という国体(国の体制)に代わる日米安保・同盟という今日の国体にがんじがらめにされ、多くのメディアと記者が麻痺してしまっている。だからだ」と答えた。

「中国や北朝鮮と政治的・外交的に敵対する状況をいかに打開していくか」という質問に対して私は、「小さな祖国日本、大きな祖国アジア太平洋という新しい認同=アイデンティティーを構築していくのが肝要だ」と応じた。

船客の中に86歳の元従軍看護婦、上野みつるさんがいて、前日19日に特別講演をした。「満州国」で直面した虐殺、戦闘、死、抑留などの地獄絵を淡々と語った。最後を「だからこそ戦争をしてはならない。殺し合ってはならないのです」と、声を振り絞って叫んだ。会場は、深い沈黙と感動に包まれた。

私たち水案仲間は、早すぎる桜花爛漫の横浜を中華街まで歩き、解散宴を張った。

 「7月の荒海に挑む平和船」(参議院議員選挙を展望しつつ)  

 

2013年3月12日火曜日

「波路はるかに」第7回 =パペーテ=

2013 「波路はるかに」第7回 =パペーテ=

【3月8~9日パペーテにて伊高浩昭】2年ぶりにタヒチに来た。「フランス化」されすぎているとして、ポール・ゴーギャンが120年前にがっかりした島である。折から、仏領ポリネシアの、「大統領(プレシドン)」と呼ばれる自治政府首班オスカル・テマルが反核を訴え、仏核実験(1966~96)被害者への賠償を要求する集会を開いていた。紹介され、平山雄貴、前田哲男、高瀬毅の各氏とともに壇上でオスカルに挨拶した。
 オスカルは、国連非植民地化委員会へのタヒチの復帰を求めて運動している。タヒチの独立を希求しているからだ。サングラスをかけた仏当局の諜報員が数人、我々を見張っていた。私たちが集会に出席すると知って諜報員らは事前にピースボート船内に入り、私たちのことを細かく調べたという。フランスはタヒチを絶対に手放したくないのだ。
 オスカルは、5日に死去したウーゴ・チャベス大統領のために黙祷をささげた。私たちも賛同した。壇上には、チェ・ゲバラの肖像入りの旗がたなびいていた。チャベスの国葬は8日カラカスで挙行され、副大統領ニコラース・マドゥーロが暫定大統領に就任した。4月には次期大統領選挙が実施されることになる。ベネズエラの政治の季節はさらに熱く長く続く。
 9日夜半、オーシャン・ドゥリーム号は横浜に向け9000kmの航海を開始した。半月後には着く。

2013年3月4日月曜日

「波路はるかに」第6回 =ラパ・ヌイ(イースター島)=

2013年「波路はるかに」第6回=ラパ・ヌイ(イースター島)=

【3月2日ラパ・ヌイにて伊高浩昭】永く深い静寂があった。途方も無い沈黙があった。巨石人面像モアイの群と対話し、何かを掴んだ。先年対話したスフィンクスは、「時は永遠ではない」と、私に告げた。モアイの言葉はまだ解読できない。いずれ分かるだろうが、ポリネシア海洋民族の知恵がちりばめられた言葉に違いない。
 モアイは人面像であるがゆえに、スフィンクスよりも人間的で、心に迫るものがある。
 カヤオで乗船したラパ・ヌイの青年指導者の一人、26歳のマリオ・トゥキ君は、なかなかの人物だった。十日余り一緒に居て、親友になった。彼はいつの日か、島の未来を背負うことになると思う。
 島は1888年以来チリ領だが、島の先住民族の認同(イデンティダー)は「ポリネシア大三角形」にある。ラパ・ヌイ、ニュージーランド、ハワイを結ぶ広大な島嶼地域である。
 島のラジオ・テレビ局の記者たちから取材された。お返しに、私も彼らを取材した。ラジオは毎日、公用語の西語とラパ・ヌイ語のほか、英仏両語でも放送しているとのこと。観光が島の最大の産業であり、英仏両語を使う者がかなりいるのだという。
 私は今回、1月末にブエノスアイレスで乗船したが、1ヶ月後に上陸したラパ・ヌイが船旅の頂点となった。心のひとかけらを、この絶海の孤島に残した。
 PBオーシャン・ドゥリーム号は夜、2時間半をかけて島を一周してから、西北に4000km離れたタヒチに向かった。水平線上の闇夜に南十字星が輝いている。頭上にはオリオン座だ。
 タヒチ入りに備え船内講座講師として、パペーテで反核運動をしているミルナという女性がやってきて乗船している。ポール・ゴーギャンの「タヒチの女」の絵から抜け出してきたような風貌と体躯に、驚いた。私は明後日、「ゴーギャンとタヒチ」という講座を開くことになっている。
 衛星通信は極めて不安定で、回線が何日も繋がらなかった。ラ米情勢も何も把握できない。