2013年4月8日月曜日

半世紀ぶりにチャンドラーを読む


 レイモンド・チャンドラーの『リトゥル・シスター』(1949、村上春樹訳・2012・早川書房)を読んだ。学生時代に『さらば愛しき女よ』(1940)、『長いお別れ』(1953)などを読んで以来、半世紀ぶりのチャンドラーというか、フィリップ・マーロウとの再会だった。

 世界的に有名な作家の訳で、一味違ったものになっている。だが、何か所か、「名訳」でないところがある。

 チャンドラーの亜流が世界中で出ているが、彼らの多くは、マーロウのようなハードボイルドの主人公を創りきっていない。マーロウは依然超えられていないのだ。

 電脳文化の全くない、テレビが狂い咲きしていなかった時代の米社会が背景の物語だから、味がある。亜流の難しさは、電脳文化狂い咲きの現代のハードボイルドの在り方を探り出すことだろう。携帯電話という煩わしい小道具に惑わされない重厚さを醸しだすのも容易ではないだろう。
 
 昔は、主人公は社会の小さからぬ構成部分を代表していた。いまは構成部分が定かでなく、したがって代表の姿も判然としない。理解の前提としての社会通念も大方失せている。過去と比較することさえ無意味と言えるほどの激変がある。

 だが、いつの世も、作家は読者の心を捉えなければならない。この点では、力量が試されることに変わりはない。久々に面白い読書だった。