2013年9月17日火曜日

ビクトル・ハラ虐殺40周年行事催さる


 キューバ革命以後ラ米に生まれた文芸創設運動の中に「新しい歌=ヌエバ・カンシオン」があった。その旗頭はチリ人ビクトル・ハラだった。ハラは1973年9月16日、軍事クーデターから5日目、サンティアゴ市外れの一般墓地の脇で、他殺体となって発見された。

 体には44か所の弾痕があった。両手は拷問で砕かれていた。「2度とギターを弾かせないため」、拷問者が潰したのだった。ハラはクーデター直後、ペドロ・バリエントス以下の陸軍小隊によって国立競技場に連行され、地下の部屋で殺害された。

 アジェンデ社会主義政権の「政治的文化」活動の中心人物だったため、またノーベル文学賞詩人パブロ・ネルーダに近かったことから、ピノチェー軍政に特別に敵視されていた。

 その殺害の40周年行事が15~16日、一般墓地のハラの墓一帯で、英人妻ジョアン・ハラ(元舞踊家・演出家)ら縁者、友人、ファンら多数が参加して催された。若者300人は、墓地周辺の壁300mに、ハラにまつわる壁画を描いた。

 バリエントスは米国に逃亡し、帰化してフロリーダ州内に住む。この九月、ジョアン夫人ら遺族は、米法廷にバリエントスを人道犯罪で裁くよう告訴した。だがチリ社会党幹部は16日、バリエントスの身柄送還を米政府に要求するよう、チリ政府に求めた。

 ハラは生きていれば、今月28日に81歳になるはずだった。