2016年3月1日火曜日

「アイヒマン・ショー」「グランドフィナーレ」「Mrホ-ムズ」を観る

 東京浅草で少年時代を過ごした私は、小学4年~中学2年のころ、ほとんど毎土曜日、3本立ての映画を観ていた。浅草6区に数多くあった上映館か、鶯谷駅に少し近い入谷地区の入谷金美館(通称「いりきん」)かで観ていた。

 当時、コロッケ4個で10円、もりそば・かけそば一杯15円、ラーメン20円、映画3本立て40円ぐらいだった。こどもの小遣い銭で毎週、映画を楽しめたのだ。

 たまに、国際劇場の楽屋に首を突っ込むこともあった。松竹歌劇団は小月冴子、川路龍子の2枚看板の全盛時代だった。子供の私は、踊り子たちから可愛がられ、たばこを買ってきてくれと頼まれ、買ってきてやると、お駄賃として小遣い銭をもらったものだ。

 2016年に飛ぶが、私は今年に入ってから、一日映画を3本観る日が3回あった。新しくは、つい最近のことだが、都内で「アイヒマンショー 歴史を映した男たち」(96分、4月23日公開)、「グランドフィナーレ」(124分、4月16日公開)、「Mr。ホームズ 名探偵最後の事件」(104分、3月18日公開)の試写会をはしごした。

 「アイヒマンショー」は、「絶対悪ナチ」を「絶対善ユダヤ人」が断罪する実話のテレビ中継放送がいかにして可能になったか、というドキュドラマである。

 この映画を観て誰もが気付くだろうが、日本では2013年上映された「ハンナ・アーレント」というアイヒマン裁判にまつわるドキュドラマがあった。ハンナは、アイヒマンを「絶対悪」と見なさず、平凡なナチ軍事官僚機構の一部品にすぎないと喝破し、当時のユダヤ人社会を敵に回した。

 今回の映画は、本筋を「ハンナアー・レント」を踏まえて展開させている。一つの進歩があり、定着したようだ。私は1967年にメヒコで、壁画家ダビー・アルファロ=シケイロスにインタビュ-していた時、画伯が「第2次大戦中、ユダヤ人には正義があったが、今日裁かれるべきは彼ら(ユダヤ)だ」と吐き捨てるように言ったのを覚えている。パレスティーナと周辺のアラブ諸国に軍事攻勢をかけていたイスラエルを厳しく批判してのことだ。

 シケイロスの批判の延長線上に、先ごろ観た「オマールの壁」がある。

 「グランドフィナーレ」は、老いの悲哀は過去の栄光が輝かしければ輝かしいほど深い、ということを讃えている。仏僧が最終局面で空中浮遊する場面があるが、これには人間の喜怒哀楽の上位に身を置く「超越」の意味がある。

 欧米人の映画監督には、禅僧らを画面に盆栽や日本庭園の石のように置くのを好む傾向がある。「何やらわけのわからないもの」をも、自分たちの「多様性」の中に取り込んで乙に澄ますのだ。

 主人公のマイケル・ケイン、ハーヴェイ・カイテル両老人と、厚化粧の「大女優」役のジェーン・フォンダが懐かしかった。

 「Mr。ホームズ」は、1月に観た「シャーロック 忌まわしき花嫁」(付録付き115分、2月19日公開済み)とどっこいどっこいだ。コナン・ドイルの原作にない亜流作品の域を出ない。老いさらばえたホームズなど誰も好んで観ようとは思うまい。かといって、ホームズが空を飛ぶのに喝采するお人よしも多くはあるまい。

 教訓は、誰も、自分の全盛期に精いっぱいやれ、ということだろう。

 ともあれ、映画はありがたい。製作者や監督、俳優、撮影班、裏方勢、映画記者ら何百人もの映画人が長い時間と膨大な資金をかけて生み出す作品を、我々は90分か120分で簡単に消費してしまう。単なる消費ではなく、学ぶことも少なくない。

 試写会場では、紙誌の映画記者、映画評論家、俳優・女優と会ったり見たりすることがしばしばある。映画が専門でない私のような者もいれば、評論家もいる。大学教授やテレビキャスターもいる。「グランドフィナーレ」では、評論家T氏と隣り合わせた。

 どうも3本立てを観ると遠い日の習慣が甦りつつあるようだ。年老いても、老いぼれないために映画はいい眼薬になる。