2016年12月18日日曜日

ペルーの日本大使公邸事件から満20年、フジモリ氏が回想

 在ペルー日本大使公邸占拠人質事件発生から12月17日で丸20年が過ぎた。ゲリラ組織「トゥパック・アマルー革命運動」(MRTA=エメエレテア)のネストル・セルパ司令以下14人が、天皇誕生日祝賀会さなかの公邸を急襲、多くの人質を取った。

 人質は最終的に青木盛久大使ら男性72人となり、日秘両政府とゲリラ側との交渉が始まった。MRTAは、当時収監されていた仲間470人の解放、フジモリ政権が推進していた新自由主義経済政策の変更、刑務所の囚人待遇改善、身代金、クーバへの出国などを事件解決の条件として打ち出していた。

 カトリックのフアン=ルイス・シプリアーニ司教(現在リマ大司教兼枢機卿)が仲介、寺田輝介駐墨大使(当時)らがセルパらと話し合った。当時の橋本政権はアルベルト・フジモリ大統領に平和解決を繰り返し要請する一方、ゲリラが出国先として希望していたクーバのフィデル・カストロ国家評議会議長(故人)にも解決への協力を依頼した。

 だが強気のフジモリ大統領は終始、軍事力による決着を求め、事件発生から127日経った1997年4月22日、軍と警察の要員で140人で構成する特殊部隊を、公邸の地下まで掘り進めていたトンネルから公邸に突入させ、MRTAを制圧、人質を解放した。

 この作戦でペルー人の人質だった判事1人と突撃要員2人が死亡。ゲリラはセルパら十数人が射殺されたが、当時の大使館員の証言によれば、生き残っていたゲリラ2~3人は拘束された後、殺害された。

 殺人を含む人道犯罪を命じた罪で禁錮25年の実刑に服役中のフジモリ元大統領は17日、電子メディアを通じて、「睡眠中に見た夢にトンネルが出てきた。ある朝4時に起床し、作戦試案を練った。以前見ていたトンネルの多いチャビン・デ・ウアンタル遺跡を思い出し、作戦名とした」と書いた。

 元大統領はまた、「人質解放に成功したあの出来事から20年が過ぎた。危機管理が成功したことに満足し、勇気ある兵士たちを誇りに思っている」とも記した。

 さらに、事件当日について、「あの日は日本の代表団と共にアヤクーチョ市に行き、(日本からの)贈り物の贈呈式をし、帰途、ナスカ市に立ち寄って、少し前に起きた地震の被災地を視察した。リマの政庁に戻ったのは午後7時半だった。待っていた(長男)ケンジの経済の勉強の面倒を見た。机上には日本大使からの招待状が置いてあった。この種の会合には通常は出席しないが、日ごろの厚い援助に鑑み、出席しようかと考えていた」と書いている。だが結局出席せず、人質にならないで済んだ。

 フジモリへの恩赦を求める声が本人、家族、支援者から出ている。だが司法省は16日、フジモリへの赦免は人道犯罪ゆえにありえない、と発表した。

 PPクチンスキ現大統領は事件発生20年記念日に先立つ12日、突撃コマンドの生存者らを招いて功績を讃えた。一方、米州諸国機構(OEA)の米州人権委員会(CIDH)は昨年、「MRTA要員2~3人が身柄拘禁後に殺害された件」について捜査するよう、ペルー政府に命じている。

 フジモリの長女ケイコが党首の政党「人民勢力」(FP)は国会最大勢力。最近、老舗政党PAP(ペルーAPRA党)と連携し、ハイメ・サアベドラ教育相不信認決議を可決、解任に追い込んだ。

 これを受けてシプリアーニ大司教は、大統領府と国会の関係を安定させるため、クチンスキ大統領とケイコ・フジモリを近く大司教公邸に招き会談させる手はずを整えた。