2017年1月5日木曜日

チェ・ゲバラに賛同したアルゼンチン人画家シロ・ブストス死去

 1960年代に革命家エルネスト・チェ・ゲバラの命を受けて活動した亜国人画家シロ・ブストス(84)が1月1日、亡命生活を送っていたスウェーデン南部マルメ市の自宅で死去した。3日明らかにされたが、死因は心臓発作だった。

 シロは1932年、亜国中西部アンデス山脈沿いのメンドサ市で生まれた。同市にある国立クジョ大学芸術学部に学び、画家になった。61年、亜国芸術家・作家訪問団の一員として革命後間もないクーバを訪問する。

 同国人で、チェの親友だった医師アルベルト・グラナードと知り合い、チェに紹介された。グラナードは、チェの第1回南米旅行の同伴者で、ベネスエラで医師をしていたが、クーバ革命成功後、ハバナに移住していた。

 シロは同年再度訪玖、チェから亜国内にゲリラ拠点を構築するのに協力するよう求められ、承諾する。チェはクーバ国籍を与えられていたが、紛れもない亜国人だった。

 チェ、ジャーナリストとしてハバナで活動、通信社プレンサ・ラティ-ナを率いたこともある亜国人ホルヘ=リカルド・マセッティ、グラナード、シロの亜国人4人は「人民ゲリラ軍」(EGP)結成で合意、グラナードとシロは亜国で結成準備に当たる。

 チェは将来の南米でのゲリラ活動に備え、ペルー、ボリビア、亜国、ブラジルなど南米中南部にまたがる広大な戦線構築を構想していた。

 1963年、EGPはボリビア南部から国境を越え、亜国北部のサルタ州高地で拠点を設ける。マセッティが司令だったが、EGPの活動が定着したら、チェが最高司令に収まることになっていた。

 ところがEGPは存在を察知され、スパイも紛れこみ、64年4月、亜国国境警備隊によって壊滅させられた。シロは逃げおおせ、ウルグアイで地下生活を送る。だがチェとの連絡は維持していた。

 1966年11月、ボリビア・サンタクルース州ニャンカウアスー渓谷にゲリラ拠点を設営したチェは、シロを招く。シロは67年3月、ラパスで仏知識人レジ・ドゥブレと落ち合い、女性工作員タニアの案内でチェの陣地に到達する。

 当時、ボリビア軍はチェのボリビア民族解放軍(ELN-B)の存在を確認、小規模な戦闘が始まっていた。そんなさなかの4月下旬、シロはドゥブレおよび、取材に来ていた英国系チレ人フォトジャーナリスト、ジョージ・ロスの3人で脱出を図るが、ボリビア軍に捕えられてしまう。

 ロスは報道人として釈放されるが、シロとドゥブレは自白を迫られる。2人は自白し、シロはチェ以下、ゲリラの面々の似顔絵を描く。裁判で2人は禁錮30年の実刑判決を受け、服役する。チェは67年10月8日捕えられ、9日処刑された。

 1970年、ボリビアにフアン=ホセ・トーレス将軍大統領の人民政権が登場、シロとドゥブレは同年12月恩赦されて、発足したばかりのアジェンデ社会主義政権のチレに行き、サルバドール・アジェンデ大統領に迎えられた。

 ドゥブレはフランスに帰国、シロはアンデス山脈を越え、故郷メンドサに潜伏する。亜国ではペロン派左翼のカンポラ政権に続いてフアン=ドミンゴ・ペロン退役将軍が73年政権に就く。だが翌年死去し、夫人イサベル・ペロンが副大統領から昇格する。

 ペロン夫妻の腹心だったホセ・ロペス=レガはペロン派極右で、暗殺組織AAA(亜国反共同盟)を結成、左翼狩りを展開していた。76年3月、イサベル政権はクーデターで崩壊、ビデラ極右軍政が発足する。

 命を狙われていたシロはブエノスアイレスのスウェーデン大使館に亡命、同国に渡り、画家として暮らした。その後、チェの遺族や研究者から、シロとドゥブレが裏切ったからELN-Bは全滅しチェは殺された、との非難が起きた。

 スウェーデンのメディアは2001年、ドキュメンタリー「誰がチェ・ゲバラを裏切ったのか」を製作。チェの最期の場ラ・イゲラ村に居たボリビア軍士官ガリー・プラード(その後将軍)、クーバ系CIA要員フェリックス・ロドリゲス、ドゥブレ、シロらにインタビューした。

 プラードとロドリゲスは、シロとドゥブレの供述や似顔絵は必要なかったと語っている。シロは、ボリビア軍を欺くため実在しないゲリラ2人の顔も書き込んでいたと証言している。

 シロは07年、『チェは君に会いたがっている』と題した自伝を西語で刊行。13年6月、その英語版刊行に際してシロはロンドンの亜国大使館で記者会見し、「誰もチェを裏切ってはいない。ボリビア軍部はすべてを知っていた」と語った。

 シロは元日、家族との祝宴に参加、一人暮らしの自宅に帰ってから息を引き取り、数奇な生涯に終止符を打った。